釜山国際映画祭
10th PUSAN International Film Festival
2006/1/25-2/5

Humanitarian Awards for Documentary
人道に関するドキュメンタリー賞
 最優秀賞 Senior Year by Zhou Hao
 優秀賞 「蟻の兵隊」 池谷薫監督
 スペシャルメンション 「モナリザ」 by Li Ying
Asian Digital Competition
 最優秀賞 Taking Father Home by Ying Liang
 
優秀賞 Walking on the Wild Side by Ham Jie
 国際批評家連盟賞
 The Silent Holy Stones by Wanmacaidan
*日本からの出品作品はこちらから

概観
 30回ということでプロモーション、プログラミングともに気合いが感じられた。映画祭の栄誉大使として、俳優業のみならずプロデューサー業にも進出し香港映画界の活性化に貢献しているアンディ・ラウを任命し大々的に発表、マスコミや香港市民の注目度アップを図った。街中には「電影節」と書かれた旗がたなびき、存在感をアピール。一日当たりの上映本数は多くはないとはいえ、トータル2週間にもわたる映画祭だけに計350もの作品が香港各地の会場で上映された。
写真右:映画祭の赤い旗がたなびく香港市街
 今回の映画祭はオープニング2作品ともが香港映画。(「エレクション2」「イザベラ」)30周年だから特になのだろうか、「香港映画」へのこだわりが強く感じられたように思える。
 香港映画の特集のひとつは<A Tribute to Action Choreographers>。香港映画の誇るアクションに光を当てたセクションで、過去の話題アクション作20本を一挙上映した。この特集に併せて「ベスト・コリオグラファー賞」として五人のアクション監督を表彰(「酔拳2」のラウ・カーリョン、「キル・ビル」「マトリックス」のユエン・ウーピン、「少林サッカー」のチン・シートン、俳優ジャッキー・チェン、サモ・ハン)。受賞式では女優・栗山千明氏がプレゼンターを務めて、日本でも大きく報道された。栗山氏はハリウッド・デビュー作「キル・ビル」でアクション指導を受けたウーピン氏にトロフィーを手渡し、受賞を祝福した。
 その他の香港映画特集として‘’銀河映像MILKYWAY IMAGES’と銘打ち、ジョニー・トーの製作会社が1996−2005の間に製作した作品の中で8本を上映。オープニング作品のひとつも同監督の最新作であったり、映画祭会期中に発表された(香港のアカデミー賞にあたる)第25回香港電影金像奨においてトー監督の「エレクション」が作品賞、最優秀主演男優賞(レオン・カーファイ)を獲得したりと、同監督の健在ぶりがうかがえた。
 また、中心地から少し離れた文教地区にある香港映画資料館ではKONG NGEE社の50−60年代の世相を瑞々しく描いた作品21本を上映していた。
 映画祭のメイン会場、香港文化中心の大ホールでは撮影風景写真展、映画ポスター&スチール展などさまざまな展示を配し、来訪者の目を楽しませていた。
 上映会場がカオルーン地区、香港島地区にそれぞれ数箇所点在しており、移動時間は余裕をもってみておきたい。地下鉄がかなり深いため、地下鉄入り口マークを見つけても乗り場までは相当な距離がある。そのためばかりでもないのだろうが、上映開始後にも続々と観客が入ってくるのには少々閉口する。厳しすぎるのも考えものではあるが・・・。会場の点在というのは香港映画祭のかねてからの懸案だという。それに加えて今回からのオフィシャルホテルはやや駅から遠く、あちこちを移動しなくてはならない映画祭参加者にとって理想的だったとはいえない。しかしそんな中でもトラム・ツアー(2階建て路面電車を映画祭参加者用に借り切って、香港中心地を観光)や各種のパーティを催し、それぞれのスケジュールに従って動いていて、なかなかふれあうことができない参加者同士の交流を促そうとする映画祭事務局の姿勢は大いにうかがえた。またゲストのアテンド及び通訳に関しては総じて満足しているとの声が多かった。
写真:香港島にある映画祭会場のひとつ、シティホール
 それにしても香港に限らず、東南アジア諸国の映画館内は総じて冷房が効きすぎていて、相当寒い。羽織るものを一着携帯するのが常識になっているといえばそうだが、どうにかならないものだろうか。。。


日本からの出品作品
 日本映画は例年どおり多部門にわたって上映された。アニメーションとドキュメンタリーの充実ぶりが興味深い(「人道に関するドキュメンタリー賞」の優秀賞とスペシャルメンションを日本からの出品作が獲得)。行き来がし易いこともあり日本からの作品関係者の来訪者も多く、積極的に舞台挨拶・質疑応答に参加、会場に華を添えた。が、いわゆる映画ビジネス関係者は映画祭の始まる二週間前に行われた香港フィルマートへ大挙して出向いていたことから、映画祭への参加は抑えられていた感がある。またクラシックとして中川信夫特集が組まれてもおり、よりヴァラエティに富んだ日本映画セレクションになっていたと言えるだろう。マカオの文化センターで開催された香港映画祭との提携企画である「香港映画祭精選」映画週間に4本の日本映画が出品された。こちらは中国語字幕付きで、香港の映画祭でとはまた違った反応を得られた、と満足そうに語る関係者の姿もあった。
写真:上映後に観客の質問に答える池谷薫監督(「蟻の兵隊」)



Special
今回の香港国際映画祭に作品を出品された監督に、
映画祭について振り返っていただきました。

-香港国際映画祭に参加して- 池谷薫監督(人道に関するドキュメンタリー賞受賞作「蟻の兵隊」)

香港映画祭は2003年の「延安の娘」につづいて2回目の参加だった。
前回はSARSの真っ只中で、1日に10人前後が死んでいくというまさに修羅場だった。通りを歩く人影はなく、数百人入るレストランで友人と2人だけで食事をした。街はゴーストタウンと化していた。「非情城市」――そんな映画のタイトルが思わず浮かんだ。
ほとんどのゲストが参加を見合わせる中、僕はマスク3ダースを持参して決死の覚悟で参加した。それだけに、映画祭の人から随分、大事にしてもらったことを覚えている。
以来、3年ぶりの香港。大袈裟に聞こえるだろうが、僕の心情としては、ちゃんと人が歩いているのを見て安心したというのが本当のところだ。市場や飲茶屋の喧噪の中で音楽のような広東語に包まれていると「やはり香港はこうでなくちゃ」としみじみと思った。

4月9日。1回目の上映は香港島セントラルのスターフェリー乗り場の横にあるシティホールで行われた。日曜日の午前中というのに400人ほどの人が詰めかけてくれた。
「蟻の兵隊」は、第2次世界大戦後も軍の命令で中国の山西省に残留し、中国の内戦を戦った元日本兵・奥村和一を追ったドキュメンタリーだ。残留日本軍部隊は2600人にも及び中国国民党軍の部隊として戦後4年間共産党軍と戦い、550人が戦死した。しかし日本政府は、「兵士たちが勝手に志願して残った」とみなし、元残留兵らが求める軍人恩給などの戦後補償を拒み続けている。「自分たちはなぜ残留させられたのか?」――真相を明らかにしようとする奥村さんは、やがて初年兵教育の名の下に中国人を刺殺した処刑現場に再び立つなど、自身の戦争と向き合うようになっていく。戦争の被害者でもあり加害者でもある奥村さん。映画は彼の執念をどこまでも追いかける。
客席の反応はすごかった。日本ではドキュメンタリーを構えてみてしまう人が多いのだが、面白いシーンでは爆笑が起こり、感動的な場面では涙また涙。きっと真実を明らかにしようとする奥村さんの姿に「戦争と人間」という普遍的なテーマを感じ取り、彼の気持ちに添い込むように観てくれたのだろう。一人の人間を死ぬまで捉えて放さない戦争とは何なのか。この問いかけは国境を越えて世界の人々に通じると確信した。エンディングロールが流れると同時に会場は盛大な拍手に包まれた。
上映後にはQ&Aが行われ、この映画をつくった動機や、なぜこんな大事件が日本では知られていないのか聞かれたが、一番印象的だったのは「この映画は日本で支持されるのか?」と聞かれたことだった。
残念ながらこのような映画はスポンサーがつかない。だから映画の主旨に賛同する全国各地の人々から支援金を集めて完成させたこと、そして今、試写を観て感動した人が中心となって「蟻の兵隊を観る会」という勝手連的な応援団ができ、一人でも多くの人に観てもらえるよう上映運動を続けていることを伝えた。
戦争責任を曖昧なままにしながら首相が靖国参拝を続けることに、かつて日本軍から被害を受けた東アジアの人々は当然のごとく敏感だ。だが、奥村さんのように戦争と向き合う元日本兵がいることを知り、香港の人々はその姿に心の底から感動してくれた。会場からは「お互い、知らないのは罪ですね」という未来に向けて大きな意味を持つ声も上がった。
4月12日。2回目の上映日に悲しい知らせが届いた。尊敬する黒木和雄監督が急逝されたのだ。
ショックだった。戦争と向き合う姿勢を監督からどれほど学んだことか。「蟻の兵隊」の支援者にもなっていただいていた。黒木監督の映画がもっともっと観たかった。だから、残念というよりも悔しい気持ちで一杯だった。
悲しみをこらえて2回目の上映に臨んだ。会場は尖沙咀(チムサーチョイ)のスターフェリー乗り場の横にあるスペースミュージアムというホールだった。
映画祭に行くといつも悔しい思いをすることがある。ドキュメンタリー映画はどうしても小さな会場に回されてしまうのだ。スペースミュージアムの隣には映画祭のメイン会場である香港文化センターがあるのだが、ここの大劇場は1800席もある。こんなところを満席にして上映できたら、さぞかし気持ちいいことだろう。いつか奥村さんにそんな光景を見せてあげたいと思った。
上映は夜の7時15分から始まった。シティホールの観客は普通の市民が多かったような気がするが、この日の観客は完売になることを予想して早くからチケットを買い求めたジャーナリストや研究者が多かった。香港在住の日本人の姿も多く見られた。そのためか、上映の間の反応は初回に比べて冷静だったような気がする。
上映後のQ&Aでは「被害と加害を超えた人間のドラマ」「奥村和一の勇気に感動した」という嬉しい感想が相次いだ。
そんな中で商社の駐在員らしい若い日本人男性が「あの戦争は侵略戦争か否か、監督のあなたはどう思っているのか」と聞いてきた。僕は無論「侵略戦争は侵略戦争だ」と答えたが、そのような言葉に絶対的な意味を感じて縛られるのではなく、一人の人間にとって戦争とはどんなものなのか、そこが重要な問題だと付け加えた。例えば2600人の元残留兵にはその数と同じ2600のドラマがある。そのことを知ってほしかった。
上映後にちょっとした事件が起きた。劇場ホールでさらに質問を受けていると、おかっぱ頭の若い香港人の男が体を小刻みに震わせながら抗議してきたのだ。
最初は彼が何を言いたいのか分からなかった。しきりにこのドキュメンタリーには嘘があると言っている。かなり頭に血が上っている様子で、ひょっとしたら殴られるかも知れないと思ったぐらいだ。
話を聞くうちに彼が国民党のシンパであることが分かってきた。これは想定外のことだった。要するに彼は、奥村さんが残留の真相を解明しようと調べ上げた内容に疑念を持ち、我慢できない状況になっていたのだ。
映画の中で奥村さんは、日本軍の山西省残留が戦犯逃れを目論む軍司令官と国民党系軍閥の閻錫山の密約によって引き起こされたと訴える。そのために山西省の公文書館で執念深く資料を探すのだが、これが全くのフィクションだとその若い男は言う。映画に出てくる資料はすべて小道具だとまで言ったのである。早い話が、なぜ閻錫山を、そして国民党を悪者にするのか、と彼は言いたいのだ。さらに彼はこの映画のスポンサーは誰だと聞いてきた。全国の有志からカンパを集めたと答えると、「それも絶対に信じない、誰かがお前に金を渡してこれを撮らせたのだ」と僕を呆れさせた。
凄まじい勢いでしゃべりつづける彼を眺めているうちに、あることを思いついた。香港には調景嶺という大陸から逃れた国民党系軍人の落人村のような一帯があるのだが、彼はそこの出身ではないかと考えたのだ。
正確に言えば朝景嶺はあったと過去形にしなければならない。香港政庁は97年の返還にあたって政治的にやっかいなこの一帯を処分するために、再開発を理由に半ば強制的に住民を立ち退きさせている。当時、この場所に関心を持ち一度ならず取材に訪れたことがあるが、山の斜面一杯に国民党の青天白日旗が翻る異様な光景を覚えている。
調景嶺の住人はさまざまな差別にあってきた。それだけに彼は「蟻の兵隊」の一部を信じるもの=国民党への冒涜とみなしたのだ。
最初は怒りを覚えたこの青年との論争が、そう考えた瞬間から僕の中で決して軽くない意味を持つものに変わった。映画が触れた事実に関してはまったく妥協する余地はないが、少なくともこの青年の思いに対しては真摯に向き合わなければならない。差別の歴史の中で彼が信じたものをないがしろにしてはいけない、と思った。
4月13日。夜7時から授賞式が行われ、「蟻の兵隊」は人道に関する優秀映画賞を受賞した。名前を呼ばれてステージに上がりトロフィーをもらう。受賞スピーチは、上映の時のように「ダイガー、トーチェ(皆さん、ありがとう)」と広東語で切り出した。次に何を言おうかと迷ったが、やはり黒木監督のことを話すことにした。監督は香港の映画ファンにも知られているので、皆、驚いた様子だった。「この賞を、戦争と向き合い映画をつくる勇気を与えてくれた黒木監督に捧げる」とたどたどしい英語で締めくくった。
世界初公開の舞台となった香港国際映画祭。「蟻の兵隊」は、そして奥村和一は、間違いなく香港の人々の心を掴んだ。「蟻の兵隊」を支えてくれたすべての皆さんに深く感謝したい。

写真:映画祭会場での池谷監督

*「蟻の兵隊」公式ホームページ http://www.arinoheitai.com
 


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