パルムドール
 『華氏911』 マイケル・ムーア監督
グランプリ
 『オールド・ボーイ』 パク・チャヌク監督
最優秀監督賞
 トニー・ガトリフ (『エグザイルス』)
最優秀女優賞
 マギー・チャン (『クリーン』)
最優秀男優賞
 柳楽優弥 (『誰も知らない』)
脚本賞
 アニエス・ジャウィ、ジャン・ピエール・バクリ
  (『ルック・アット・ミー』)  
カメラ・ドール(新人賞)
 『OR』 ケレン・イェダヤ監督
審査員賞
 『トロピカル・マラディ』 アピチャッポ・ウィーラセタクン監督
 イルマ・P・ホール (『レディー・キラーズ』での演技)
*日本からの出品作品はこちらから


概観
 何かと対比されて論じられることの多いハリウッドとヨーロッパ映画界であるが、カンヌにおいてはその二大勢力がうまく融合している。のみならずカンヌ映画祭は世界規模での映画の祭典で、いわゆる「映画祭」の枠を越えた一大産業なのだという感を強くした。ハリウッドの中でもAランクと見なされるスターたちが続々詰めかけ(ブラッド・ピット、トム・ハンクス、キャメロン・ディアス...)、誇らしげにレッド・カーペットを闊歩する。その一方で良質なインディペンデント映画の作家も同じカーペット上を満足げに歩きながら、公式会場・パレへと入場する。カーペットの先に待ち受けるのはカンヌ映画祭プレジテント・ジル・ジャコブ氏とアーティスティックディレクター、ティエリー・フレモー氏、正装したカメラマンたちによって夥しいフラッシュがたかれ・・・とお膳立ては完璧、盛り上がりは最高潮に達する。この瞬間を一度味わうとやみつきになるというのも分かる気がする。
(写真左:レッド・カーペットを歩くスターを一目見ようと集まる人々)

  コンペ出品作品に対して批判の声の多かった昨年度とは一転して、今年のラインナップは好意的に受け止められていた。確かに粒揃いな作品群で、大きな失望の少ない年であり、なかでもアジア映画の質の高さは際立っていた。また19本と厳選されたコンペ作品のうち、アニメーションとドキュメンタリーがそれぞれ二本ずつでジャンルの幅広さも着目に値するセレクションであったといえる。ゴダール、アルモドヴァル、キアロスタミといった大御所の作品をコンペ外招待作品として華々しく上映し、コンペには比較的若めで、’これから’に期待の持てる作家陣を揃えたのも正解だったと思われる。

 総じて良い雰囲気に包まれていた今年のカンヌ映画祭。コンペティション作品の全体的な良し悪しが、映画祭全体の雰囲気にも大きく影響しているのだろうと思われる。さまざまな催しやビジネスが展開されているとはいえ、やはり一番の主役は映画で、映画を中心に廻っているのだという事実は「世界一の映画祭」の名にふさわしい。

 華やかに繰り広げられる映画祭の一方で、テロへの警戒から例年以上に警備は強化、またデモンストレーションのためパレ付近の交通が規制される一幕も見られた。

受賞結果
  今回の審査委員長はアメリカの映画監督、クエンティン・タランティーノ氏。94年に「パルプ・フィクション」でパルム・ドールを受賞、世界的に注目を浴びるに至った監督だが、自他共に認めるB級映画作家である。このタランティーノ氏率いる審査員団が各賞の選定に当たって、どのような決断を下すかが例年にも増して注目されていた。ブッシュ政権正面から糾弾したドキュメンタリー、「華氏911」への最高賞(パルム・ドール)授与というセンセーショナルな結果に加え、各賞の発表後、史上初めて賞決定に至った経緯を公に語ったのは画期的。今回の審査員団の独自性の表われといえる。

コンピューター化!
 今年の映画祭の大きな驚きのひとつは、チケット引換券発行手続きのコンピューター化である。チケット引き換え場付近には10台ほどのコンピューターが備えられ、自分のID番号とパスワードを入力すると瞬時に現時点で入手可能なチケットの一覧が表示される。希望と合致すればその時点で予約し、表示された日時までにピックアップに行く、という方式。各担当者との個別交渉で、強烈な待ち時間、不公平感いっぱい、とストレス以外の何ものでもなかったチケット獲りの労力が大幅に緩和された。(そうはいっても相変わらず不透明感が「払拭」されるには至っていないが・・・)
 またマーケット試写に際してもコンピューターが活躍。来訪者のIDカードを読み取り記録されることから、その場に立ち会わなかったとしてもチェックができるという。映画祭の公式ホームページにアクセスすると、記者会見の模様が動画で見られたりもした。急速に進むカンヌ映画祭内のコンピューター化、喜ばしい驚きである。




コンペティション部門
 今年は計19本のコンペティション作品の中に日本映画が2本組み入れられていた。是枝裕和監督の「誰も知らない」は13日にコンペ作品としてはトップ上映となった。受賞にあたっては映画祭の会期後半の方が有利と見られている向きもあるが、監督の意向もあってこの上映日となったという。是枝監督としては2001年の「ディスタンス」に続く2作目のカンヌ・コンペへの出品作。愛人宅に行ったまま戻ってこない母親の代わりに四人兄弟の長男が弟妹を守ってゆくという80年代の東京で実際に起こった事件をモチーフに作られた、ドキュメンタリー色の濃い作品である。公式上映中もほとんど退席者もなく、観客が一体となって固唾をのんでスクリーンに見入っていた。プレスの間でも好評、コンペ作品の中でもたいへん評判の高い一本であった。結果、同作品で長男役を演じた柳樂優弥くんが栄えある男優賞を受賞。史上最年少(14歳)、日本人初ということで日本中に大きな話題を呼んだ。日本人俳優の影の薄さを思うに、柳樂くんにはスケールの大きい俳優に育ってもらいたいものである。
  同じくコンペ部門に出品されたのは押井守監督の「イノセンス」。海外にも熱狂的なファンをもつ日本を代表するアニメ作家で、カンヌ出品は前作「アヴァロン」(特別上映)に次いでやはり二度目。アニメーションとしても技術の粋を極めた映像に感嘆の声が上がった一方で、独自の世界観が前面に出て、難解すぎるとの評も少なからず目にした。

監督週間
  監督週間セクションに、日本映画「茶の味」がオープニング作品として選ばれたことも初めての快挙であった。監督週間の作品選考メンバーが一新され、大幅に若返りを見せたということも影響しているかと思われる。総じてたいへん好意的に迎えられ、辛辣な映画評で知られるフランス日刊紙「リベラシオン」も一頁を割いて同作品を取り上げたほどであった。監督週間の作品はカンヌ映画祭閉幕後、すべてパリのフォーロム・デ・イマージュで一括して再上映される運びとなっており、万田邦敏監督「あのトンネル」らと共に、パリでももう一度話題を振り撒いてくれるのではと期待したい。

スペシャル・イヴェント
  また映画音楽作曲家・久石譲氏が特別イベント(バスター・キートンのサイレント映画「キートンの大列車強盗」の上映)に際し、カンヌの交響楽団を指揮。満場の拍手を浴びた。コンペ作品を追いかけたり、商談に追われたりでなかなか足を運ぶ人は限られてしまいがちであるが、最新のデジタル処理で蘇った名画を中心に上映するCannes Classicsの部門は期待を裏切られることなく、鑑賞に浸れる心休まるセクションである。

ジャパン・パビリオン
  主に各国の公共映画団体のパビリオンが集結する「international village」(メイン会場パレに隣接)の一角に初めてジャパン・パビリオンが軒を連ねた。同パビリオンはかつてよりその必要性が論じられてきた「カンヌにおける日本映画の情報発信拠点」として、文化庁とユニジャパンが経済産業省、日本貿易振興機構(ジェトロ)の協力のもと立ち上げるに至った。最新の日本映画パンフレットを配布するほかに、日本映画の現況に精通し、かつ語学に堪能なスタッフが常駐し、世界各国から訪れる人々からの問い合わせに対応。また映画関係者間のミーティングに広く活用された。「誰も知らない」「イノセンス」のパーティ会場として、また日本関係の映画の取材場所としても有益であった。一過性ではない、継続的な設置が望まれる。

 


今回のカンヌ映画祭・監督週間に参加された辻直之さんに、
映画祭について振り返っていただきました。
「闇を見つめる羽根」04年カンヌ映画祭監督週間での上映
                    
実験アニメ映画作家、美術家 辻直之
 5月16日、午後2時。カンヌ、ノガヒルトン地下の劇場。短編4本のプログラムの3本目。観客は、面白がって観たようだった。私の作品は一見してストーリーが解り難い。自分でした編集に欠点が多い。どうやらなんとなくの印象や絵の雰囲気といったものを観客は楽しむようだ。私としてはストーリーが伝わらないのは残念だが、自分の客観性の無さが悔やまれる。意外に思ったのは、日本でもカンヌでも、観客の反応はあまり変わらないことだ。私の映画を上映している最中の雰囲気というものが、カンヌでも観客から立ちのぼった。筋が、創世記神話のようなものなので、文化的背景の違いが出難いのか?。木炭画のアニメを初めて見る人も多かったことだろう。後で知ったがフランス人ばかりでなく欧米各国の様々な国から来た観客だったようだ。監督週間は一般の人もチケットを購入できるので、映画が好きだから観に来たという人も多いようだ。映画を観てくれた人と様々な所で話をした。声をかけてくれる人は、気に入った人だった。
 映画祭全体の印象は、大きな映画祭は初めての私にとっては信じがたい非日常的世界だった。スターが集まって来るということが、人々に興奮をもたらしているようだった。スターが街に来て、人々の前にショーアップされた微笑みを見せる数分。その微笑みを脳裏に焼きつけようとする人々。夕方を過ぎるとそうした光景は何度も繰り返された。私もゴダールの姿を目蓋の裏に焼きつけようとしたが、肝心のゴダールの顔を覚えておらず、ビデオに撮った画像を帰ってから知人に見せてどれがゴダールかを確かめた。かつてD.クローネンバーグが自主制作で、友人と撮った短い映画を持ってカンヌに来たことがあったと彼自身が書いていたものを読んだことがある。その時は学生映画のような物をだれも相手にはしてくれなかったので悔しい思いをしたと書いてあった。なぜか私は時々そのことをおもいだす。そして数十年後、彼は審査員長を務めた。その文を読んで、十数年後、なぜか私はカンヌにいた。小さな短編アニメを持ってきただけだが、私なりにがんばってきたのだ。
 セキュリティーの男たちの数が多かった。黒のスーツ、サングラス、太い腕。ボディーガードやSPと呼ばれる仕事もやっているだろう彼等は沢山の出入り口をがっちりと固めている。映画祭に雇われているというよりは、彼等に断りなく、映画祭はできないのではないのだろうか?映画によくこうした男たちが出て来るが映画人にとって彼等は興味ぶかく、身近な存在なのではないか。
 映画の上映が終わる午前0時ごろからパーティを各地でやっている。監督週間のスタッフの方がさそってくれておいしいものと楽しい雰囲気で、映画に関心を持った業界関係者を制作サイドがもてなすというわけだ。華やかではあるけれど映画を売り込むことは大変に賭けているのだとわかった。なにしろ映画祭期間中、カンヌでは物に依るが、物価が普段より随分高いようなのだ。私たちは自前でパーティをするなんて思い付きもしなかった。やるかどうかは全く別の問題だとしても。
 映画は20世紀の人々に、時に熱狂的な、そして様々な夢を与えてきたメディアだ。21世紀の現在でも、それは続いているし、一方常に状況は変質していっているはずだ。カンヌ映画祭はどこか狂ったような映画のお祭りだった。現実ばなれしている。でも夢に酔う、酔わせるのが生業の人たちのお祭りなのだ。当然かも知れない。映画が21世紀を20世紀とは全くちがう風に歩むことは間違いないだろうが、大衆を魅了する映画の世界に携わる人達の思い、思惑に触れて映画そのものを愛する気持ちが自分に芽生えてきたように思った。
 私のアニメは世界で話題になっているジャパニメーションとだいぶちがうものだ。72年生まれなので、子供の頃は浴びるようにテレビアニメを観て来たけれど、実際に自分が作品を作りはじめる時に参考にしたのは、東西ヨーロッパの短編アニメだった。日本の短編アニメにも、素晴らしい作品が沢山あるのだが、私はよく知らなかったのだ。普段お世話になっているのは、実験映画に携わる人たちで、実験映画の上映会の場で、作品を上映してもらうことが、比較的多い。私自身も実験映画の世界に憧れを持っていて、実験映画を見ること、前衛という態度、試みに関心がある。実験映画という言葉は、あまり知られていないが、日本では短い物も多いが年間100本は作られているのではないか?(定かな数字ではない)。実験映画と一口に言っても、映画でメディアを批評したり、映画そのものを考察したり、あるいは画家が独りで絵を描くように映画を作る、映画のフィルムやビデオの特性そのものを作家がそれぞれに自分のアプローチで抽出し何かを語る等、様々な傾向のものがある。04年のカンヌ監督週間では、実験映画を久方ぶりに取り上げるという方針を持っていた。監督週間はその創立期からしばらくのあいだ、実験映画も上映していたが、今年からまたやろうということのようだ。「闇を見つめる羽根」と宮崎淳氏の「FRONTIER」は実験映画として参加した。日本には実験映画の豊饒な作品群があり、毎年新しい作品も活発に作られている。今後様々な作品がカンヌで紹介されることを願う。そして、是非実験映画にみなさんも触れてみてほしい、というのが私のお願いです。


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