Kaleidoscope vol.7
 今回は、カナダ・モントリオール世界映画祭の創設者であり、現在もディレクターを務めているセルジュ・ロジック氏です。
 

interview -マダム・カワキタのこと-


セルジュ・ロジック氏
-かしこ夫人との思い出を語ってください。
 かしこ夫人とは60年代の初めにパリで会ったのが最初でした。共通の友人であったシネマテーク・フランセーズ創設者、アンリ・ラングロワ氏に紹介されて。その数年後、60年代半ばに初来日を果たした時にも、またそれ以後もかしこ夫人には本当にお世話になりました。その初来日のそもそもの目的はカナダのとある映画祭で日本映画特集を行うに際しての作品選定で、もちろんかしこ夫人のご助力をいただいたのですが、それに加えて初めて体験する日本文化の最高の伝道師ともなってくれました。かしこ夫人に案内され訪れた、鎌倉、京都、奈良、一緒に観劇した歌舞伎、、、新鮮な衝撃でした。
 いや、かしこ夫人から手ほどきを受けたのは、「東洋文化」と言った方が良いかもしれません。というのも、夫人は戦時中上海に住んでいらして、実際に最先端の中国をご存知だった方ですから中国文化にも造詣が深く、中国への深い愛情もお持ちでした。

1982年モントリオール映画祭での二人
 そうそう、鎌倉(*川喜多夫妻は鎌倉在住だった)を訪れた時、夫人が連れて行ってくださったのは中華料理店だったのですよ。日本料理店に案内されると信じて疑わなかったので、驚きました。
 かしこ夫人からは日本の美学・美徳についておしえられることも数多く
ありました。私の初来日時に、とある有名ホテルに予約を入れていたのですが、通された部屋が希望とはかなり離れていて、西洋人の常でつい激しく抗議をしてしまったところ、かしこ夫人が穏やかに私をたしなめられました。「我々の文化では、意に反する状況でもそのように声高に訴えたりはしないものなのですよ」、と。‘声を荒らげない’;それがかしこ夫人から最初におそわった日本の美徳でした。自国日本の美しい習慣に誇りを持っておられたのでしょうね。夫人その人が体現していたと言ってよいでしょう。常に紫系の着物に身を包み、穏やかな微笑を湛えていらして、上品で、聡明で。それに言うまでもありませんが、映画に対する並々ならぬ情熱と愛情。
 夫人とは30年近くにわたってパリやカンヌ、ベルリンなどあちこちで
お目にかかりましたが、文字通り世界中の映画人の敬意を集めていました。モントリオール映画祭には20回くらい来ていただいたかと思います。審査員を務めていただいたこともあります。着物姿で街を歩かれる気品溢れる夫人は、我々の映画祭のレギュラーゲストたちのみならず、モントリオールの街の人々の間でも有名な存在だったのですよ。
 かしこ夫人は体調を崩されて晩年の3年ほどは旅をされなくなったとうかがっていましたので、心配していたところに飛び込んできた訃報。心の準備はしていたつもりでしたが、やはり相当なショックでした。私は夫人を「リトル・ブッダ」とお呼びして敬愛していました。文化的な意味での「母」としてもお慕いしていました。究極の日本人でありつつ、英語とフランス語を駆使して各国の映画人と交流する真の国際人、、東洋と西洋の架け橋−−まさに川喜多夫人はそんな方でした。
 かしこ夫人のような方は今後も現れることがないでしょう。
 それくらい特別な方だったのです。


セルジュ・ロジック氏 Serge Losique
今年で第30回を迎えるモントリオール世界映画祭の創設者で、
現在も代表を務める。同映画祭向けの作品選定に
積極的に世界各国を廻っている。

また自身のライフワークである「シルクロード」をテーマに
長期にわたる中国・モンゴルロケを敢行、
本格的ドキュ・ドラマを昨年完成させた。

このインタビューは2006年4月の川喜多映画財団における
選定試写の際に行われた。



かしことモントリオール映画祭


1978年のモントリオール映画祭にて




かしこが審査員を務めた1982年のモントリオール映画祭のポスター。
審査員たちのサインが書かれています。
左の下から2つめが、かしこのサインです。


映画祭カタログの審査員紹介のページ



1983年モントリオール映画祭


左からセルジュ・ロジック氏、審査員を務めた中国のスタジオのChen Xuyi氏、
俳優のグレン・フォード氏、手前が川喜多かしこ



ロジック氏と共に




ロジック氏からのポストカード(1988年)




現在のモントリオール世界映画祭
メイン会場のメゾヌーヴ劇場




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